カザフスタンのKhabar TVで今年のDimashの誕生日(5/24)に放映された"DIMASH SHOW"(ドキュメンタリー番組。約50分)
自分や周囲の人たちのインタビューを特集したビデオをDimashが自分で見て、それについてコメントしていく番組でした。
本記事は、その「日本語書き起こし」です。
↓ 全編OFFICIAL動画はこちら。約49分
↓ハバールテレビ公式チャンネルはこちら(ほぼ同内容)
Спецпроект. Документальный фильм «Dimash show: становление»
◆以下前編書き起こし(長文)
(赤太字の時間は、おおまかな目安です。)
(ナレーション)
世界中に数億ものファンを持つ彼。
メガ級の巨大コンサート、
謙虚なインタビューを放送。
若いながらもクリエイティブな経験は豊富。
そして、我々は彼について語ることにした。
「彼がどのようにして彼になったのか」についてのドキュメンタリーを作るのだ。
視聴者に“直接語る”という方法で…。
(司会など)誰も介さず一人称で話す。
ありのままで…彼の誕生日に。
― Dimash Kudaibergen ―
Dimash:座ってから始めよう。「僕が若かった頃…」
リアリティショーみたい。
「全ての秘密を話そう…」かな?それでもいいか。もっと細かく見せる?
「批判されちゃった。」…ウソだよ。
これでいい?僕は右利きだから。
じゃあ、(ビデオを)ゆっくり見ていこうか。
【ポチッ】
<Dimash Show>
(ナレーション)
ロシア、アメリカ、中国、ドイツ、ウクライナ、ラトビアがカザフ語の歌を歌う
-Dimash kudaibergenに 宿命を問う。
彼の有名な曲「Махаббат бер маған(Give me love)」の中に… 。
数百万のファンは彼に心を捧げる。
そして彼はファンに彼の全てを余すことなく捧げる…才能、声、強さそして時間…
Dimashは昔からずっと彼のリスナーに繊細に接している。
<幼いころのテレビ出演のビデオ:電話で視聴者から歌ってとリクエスト>
小D:歌います♪(ビデオを止めて)
D:このインタビューでは歌うように頼まれたんだ。僕はできるだけ低い声を出すようにしていたんだ。
と言うのも、その当時僕は合唱団に入っていたんだけど、その時はファーストがソプラノでセカンドがビオラ…声で分かれていたんだ。僕は女の子と一緒に高いパートで歌っていたんだ。コンサートでは友達の為に編曲して、一番高い声を出すようにしていた。
友達の一人がこう言ったんだ「低い声で歌える?」って。
だからあの番組では低い声で歌うようにしたんだよ。10歳の子供が低い声が出る?(笑)
(ナレーション)
この少年からは未来の惑星的スターを想像するのはまだ難しいだろう。
このテレビでの声はそんなに自信のある声ではないかもしれないが、このビデオは歴史的なものになったと言えるだろう。
この声が全世界を征服する声となるのだ。
ジャーナリストのAdilbek Kulaman が地方テレビ局のこの朝の番組で13歳のDimashをインタビューした。
彼はいまだにカザフスタン独立15周年の祝賀のことを覚えている。
Kulaman 氏:Dimashは当時6年生でした。Dauren Simagambetov(第36校の生徒)が彼と一緒にスタジオにやって来たんです。
私達は"カザフスタンの未来"と呼べる子供を探すのを手伝って欲しいと頼んでいたんです。(↓写真左の男性がKulaman 氏)
しかしDimashがこんなに素晴らしくなるとは、その時は分からなかった。
彼の家族は当時既に有名だったんです。
両親のKanat とSveta Aitbaevsと祖父母はその地域だけでなく、
カザフスタン全土でとても尊敬される人々でしたよ。
Dimashは小さな頃から彼らと一緒に歌っていたんです。多くの人々がそれを知っていますよ。
この歌はリクエストされたもので、台本にはなかった全くの即興だったんですよ。
(ナレーション)
現在Adilbek Kulamanはこの国の主要なテレビ局、ハバールの編集長である。
彼は何年も経った今ではDimashも出演する大きな番組を演出している。
Kulaman氏:Dimashがプロとして成長したことを誇りに思います。世界的な有名人になる以前の彼を知っている人たちにとって、ディマシュは、いまもかわらず細やかな気遣いをする若者。
繊細なところは変わらない。スター病にはかからない。
最近Dimashに会ったのだが、彼が最初に私を見つけて挨拶をしてくれた。「こんにちは、Adilbek aga(敬称)」と。
彼の今までの業績があるにもかかわらず、これは尊敬するべきことですね。彼は年長者を尊敬もしている。これは正しい教育です。そしてシンプルな人間性がある。
(ナレーション)ARNAU in Kazakhstan
同じ控室 ― カザフスタンの首都でのコンサート前夜、Dimashはその「緊張」について話してくれた
D:毎回これを克服するんです…言っておきますけど。いつも音大とか研究室の学生みたいな気分なんですよ。
僕を育ててくれた僕のボーカルの先生が、明日このホールにお見えになるんですよ!(おでこをパチンと叩いて)これはダブルショック(二重の緊張)ですよ。
Marat Aitimov氏(Dimashの最初のプロボーカルの先生):彼が学び始めた最初の頃を覚えていますよ。彼は弱弱しくて、大きな瞳をしていた。
Dimashは15歳から私のレッスンを受け始めました。
間違っていなければ2012年に(音楽専門学校の)ボーカルクラスに入ったんです。それ以来私達はとても近しくなった。
今でも連絡を取り合っている。だが、毎日連絡を取っているというのは違いますよ。
彼自身のパフォーマンスの組み立てに自信がない時は、私にビデオ電話をしてくることがあります。
そうすると私達はその表現方法などについて語り合うんです。
(Dimashここでビデオを止める)
D:Marat aga(ゴールデンマン)について言わないといけないな。
僕の先生。彼はクリエイティブな面での父親みたいな人なんです。
クリエイティブな面だけでなく、人生の面でも教えてくれました。
彼はステージへの道を、僕だけじゃなく、多くの歌手達に導いてくれました。
昔、僕のグループが、先生に一緒に映画に行こうと電話して誘ったんだけど、「コンサートがあるから」って言って、先生は来なかったんだ。
後日、電話をした時に「今何をしていますか?」って聞いたら「みんなと映画を観に来てるよ」って。
それを聞いて僕はすごく怒ったんだよ。抑えきれずにこう言ったんだ「僕とは(映画に)行かないのに、他の人達とは行くんだ!なんで?」って。
Marat agaは「あの時は行けなかったんだよ。(行けるんだったら)行っていたよ」だって(笑)
(ナレーション)
ズバノフ・アクトベ州立音楽学校の学生として、ディマシュは最初に素晴らしい賞を獲った。
それまでも様々な小さなコンペティションで勝ってきた。
しかしこれは“Zhas Kanat”(カザフスタンで一番有名なコンペティション)で、Dimashにとってそれからの長い道のりに本当の翼を授けたものだった。
そしてRoza Baglanova(祖国の英雄、祖国の芸術家/ご逝去)との別れがあった。
そこには予言的なコメントがあった。
Baglanova:あなたの幸運と幸せを祈るわ。あなたは私達の歌のシンボルよ。
D:僕がこの“Zhas Kanat”に参加した時、彼女は審査員ではなかったんだ。これは編集画像なんです。(注釈:これはDimashが参加した2012ジャスカナトで行われた、【Roza Baglanova(祖国の英雄、祖国の芸術家/2011年ご逝去)のお別れセレモニー】で流れた生前の映像です。彼女はジャスカナトの審査員であり、彼女のかつてのこの言葉は、今や「Dimashへの予言的な言葉」として引用されます。)
誰かがどんないい仕事をしたとしても、Roza apa(敬称)のカザフアートへの貢献は表現できないくらいに大きいんです。
僕は直接お会いする機会がなかったんだ。
いまだに残念に思っているんだ。<Murat Irgaliyev:“Zhas Kanat”大会のゼネラルプロデューサー>(先日ご逝去された)
Murat氏:“Zhas Kanat”はたくさんの美しいスターを発掘してきたんだが、Dimashはこの“Zhas Kanat”でも特別な存在だったんだ。
彼の才能や一生懸命さだけではなく、大会への準備においての誠実さにおいてもだよ。
彼はこの“Zhas Kanat”を3年も待った(3回応募してきた)んだ。
(ナレーション)
この大会は難しいものがあった。
3年目にしてやっとDimashは出場者となれたのだ。
Kanat Aitbaev(プロデューサー、Dimashの父):彼は16歳の時、私達には内緒で“Zhas Kanat”の大会に応募したんですよ。
彼は(若すぎて)受け入れてもらえず、非常に怒っていました。
そして彼は準備をし、練習をして17歳になって再び応募したんです。
そして参加が認められた通知を受け取った時は、もう優勝したかのように喜んでいましたね。
(ナレーション)
最初の時は年齢が満たなかった。
二回目はレパートリー的に何か合っていなかった。
そして3回目にやっと通過したのだが、もう少しで彼は遅刻して参加できなくなるところだった。
数年後、Murat Irgaliyevはカザフテレビのインタビューで面白い秘密を披露してくれた。
Murat Irgaliyev氏:参加者を乗せたバスはホテルを9時に出発しなければならないんだが「彼を待ってたか?」って他の参加者に聞いたら「勿論待たなかったです」と言うんだよ。(Dimashはそのバスには乗っていなかった)
そして、私は必死に考えたよ。
彼を置いてきぼりにするなんて、いったいどんな理由があるんだ?って。
女性:それは2012年ですか?
MI:そう、2012年。
それで私が「今日は誰が楽屋の鍵を開けたんだ?」って聞いたら、
「Baba Mashaです」
「Baba Masha、それが今日、楽屋の鍵を開けた?」
「はい、あの背が高くてロングヘアーで美しい歌を歌う少年(Dimash)です」
MI:彼に感謝だよ。あとでわかったんだ。ディマシュはバスに乗り遅れた、でもDimashはタクシーに乗って来て、バスよりも早く到着していたんだよ。
これが責任感ってものだよ。
D:寝坊したわけじゃないんだよ。早起きしていたんだ。スーツにアイロンをかけていたんだ。畳んであったからね。
アイロンをかけ直して、髪を洗って、靴を磨いていたら、バスが行っちゃったんだよ。わかる?
通りに出てタクシーを止めて「Aga(運転手さん)、市民会館に行ってください。いくらでもお金は払いますから」って言ったら、彼も「大会に失格するんじゃないか」って心配してくれてね(笑)車の中で主催者に電話したんだ。
彼ら(他の参加者)がバスに乗って向かってる間に、もう僕は、小さな車(タクシー)で到着しちゃった。
そして楽屋の鍵をもらって先に入っていたんだ。
で、彼らが遅れて入って来た時に僕は彼らをからかってやったんだよ。(笑)
Alexandr Ponomarev氏(“Zhas Kanat”のメインプロデューサー):彼が大会に来た時、彼が勝者だってはっきりしていたね。この大会のグランプリだって明白だった。
それで私達の使命は彼をもっとダイナミックにさせて(他と)引き離すっていうことだった。
D:彼は何度もそう言っていたね。
Alexander氏:それが彼の将来のキャリアには役に立つんだ。
D:Oh, my God, この(当時の自分の)ヘアスタイル…。
…放送されている時、Alexander Sergeyevichに聞きたかったんだ。
Murat Azhimovichさんと彼は、僕の衣装とか全ての細かいことについてアドバイスをくれたんだけど、ひとつだけ失敗したことは、僕に「髪を切れ」って言わなかったことだね。
あの頃の僕は、「あれ」がカッコイイと思っていたんだ。
Murat Irgaliyev氏:彼が3年がかりで出場したのは、他の大会ではなかったことだ。
彼は彼の先生とお父さんと一緒にこの大会に来たんだ。
Dimashはのちに私に「“Zhas Kanat”への出場は本当に嬉しかった」と語った。
これは彼にとっての最初の大きなステージだったんだ。
(ナレーション)
この大会が、Dimash Kudaibergenにとって多くの「機会の道」を開いたのだった。
第一に、「更に高い教育への道。」
Aiman Musakhadzhayeva(カザフ国立芸術大学学長):彼はすぐに注目を浴びました。
この大会の前にもディマシュはいくつか国内の小さな大会に出場していましたが、多くの筆頭アーティストや教師達の評価にはバラつきがあり、「彼はいける」「いやいけない」というものでした。
が、"こんなふうに歌うのは不可能だ"と誰もが言っていました。
今では、「このように歌うと世界中で有名になる」ということの証明となりましたね。
私が思うに、彼の(運命の導きの)星が、彼を首都ヌルスルタンに連れてきて、私たちの大学に参加させたのだと、私は言いたいですね。
(ナレーション)
このステージ(“Zhas Kanat”)で、素晴らしいボーカルパフォーマンスを披露したこのアーティスト(Dimash)は、ウクライナの“Eastern Bazar”の主催者に目をかけられる。そして彼はこの大会に招待されたのだった。
Dimashは承諾し、カザフスタンの音楽シーンから海外へと飛び出していった。
Dimashはヤルタで“Eastern Bazar”の一位を手にしたのだった。
半年後、この素晴らしい声の持ち主のDimash Kudaibergenは、Issyk-Kulに行ったのだ。
彼は人気の音楽フェスティバル“Makin Asia(2013 イシククル/キルギス)”に出場した。
Murat Irgaliyev氏:“Zhas Kanat”の後の最も大きな国際大会だったね。審査員も聴衆も多くて、様々な国から参加者が来ていて。
みんなが彼には驚いていたね。
彼は早くに大会に行っていたよ。ご両親のKanatとSveta とね。
他の参加者がウォームアップしだした時は、彼はもう準備を終えていたんだよね。
私がAlexander Sergeyevichと到着した時どうだったかって言うと、彼のご両親は大会の前に集まっただけで、すぐに帰ることになっていたんだよね。
私はKanatに「なんで大会の直前に帰るんだ」って聞いたんだ。
Kanat氏:私達は早めに到着してDimashを慣れさせようとしました。
Issyk-Kul湖はとても寒いので、彼が風邪をひかないかと心配をしていたんです。
そして大会の前日にそうなってしまったのですが、私と彼の母親は急ぎの仕事があったので、彼の世話を友人に頼んだんですよ。
勿論とても心配しましたが、パフォーマンスの前にはアーティストが元気を出すことは大切なので、私達はそんな心配を見せないようにしました。
反対に「これは国際的な大会で、お前はカザフスタンを代表しているんだから、尊厳を持って調整して歌わないといけないんだ」とはっぱをかけました。
私達はずっと家に着くまで彼を心配していましたよ。
しかも、彼からのいいニュースがなかったので。
(アナウンス)
おめでとう!グランプリはカザフスタンからのDimash Kudaibergenです!
小D:僕には良い先生達がいます。
これ(グランプリ)は、その先生方のいい仕事の証です。
D:この大会の優勝の後…既に“Zhas Kanat“があって、国際大会があって…。
Marat agaは、生徒を褒めることはしなかったです。
大会から帰ってからは、彼は試験では僕に“4”をつけ始めたんだよ。
他の全員には“5”をつけて。
僕は何も言わなかったよ。【OK, 次の試験ではもっとやってやろうじゃないか】って。で、また“4”。
僕たちが卒業する頃まで彼は成績表を見せてくれなかったんだ。
そして今卒業して成績表を開けてみたら、“4”はひとつもなくて、全部5だったんだよ。
結局のところ、彼は長い間僕にウソをついていたんだね。
でも、有難いことに、このおかげでクリエイティブな実験が良い方に反映できたんだよね。
僕は彼の この特別な教育テクニックに心から感謝しているんだ。
↓ 全編公式動画 約49分