「愛は夢のようなもの」
ディマシュが新しい命を吹きこんだ曲のお話です。
Love is like a Dream
Любовь,похожая на сон
2019年 アラ・プガチョワの70歳記念コンサートにて
作詞:ヴァレリア・ゴルバチョワ
作曲:イーゴル・クルトイ
タイトル 「Любовь,похожая на сон」(リュボフ パホージャヤ ナ ソン)は、英語で「Love is like a Dream」または「Love、Like a Dream」。
похожаяは「同じようなもの、類似している」という意味の形容詞 похожийの女性形。
Похожаяが正式な綴りですが、会話などでは短縮形のПохожаのほうがよく使われるとか。
「愛って、あまりに素敵でウットリ、まるで夢みたい」
と言うよりは
「愛って夢と似てるわよね」と言う感じですね。
さて、そのココロは?
どちらも
「目が覚めれば終わりになります」。
◆◆◆
この名曲はイーゴル・クルトイ氏作曲 ですが、作詞のヴァレリア・ゴルバチョワさんについては、あまり知られていませんね。
この曲の誕生には、ロシアポップス界のちょっとした、
いえ、
大ロマンスがあります。
そして、実は、
作詞にまつわるスキャンダルも。
【目次】
1.ロシアの大歌手 プガチョワの存在
この歌の初演・オリジナルを歌ったのは、ロシアの超有名ポップス歌手 アラ・プガチョワ/Alla Borisovna Pugacheva(1949年生まれ)。
日本では1983年のヒット曲「Миллион алых роз 百万本の赤い薔薇」(邦題「百万本のバラ」)が有名ですね。
Raimonds Pauls(ラトビア人)作曲。
Andrey Voznesensky/アンドレイ・ヴォズネセンスキーの作詩が世界中で翻訳・カバーされ、ソビエト連邦(当時)だけでなく全世界を征服したと言われています。
↓ 動画「 ‘83年の歌 決勝」での歌唱*1
今年(2022年)始まった放送大学の「初歩のロシア語講座」の音楽コーナでも、彼女は2度取り上げられました。
この方はとても"恋多き女"で、私生活では20歳で最初の結婚。
女の子(後述)を生んだ後、すぐ離婚。
5度結婚し、2022年73歳の今は、最後?の結婚相手である27歳年下のマキシム・ガルキン/Maxim Galkin(1976年生まれ。 パロディイスト・MC・役者・歌も歌う多才なショーマン)と二人で、男女のふたご9歳(代理母出産)を子育て中!
アラ・プガチョワは、このように、音楽的な活躍でも私生活の話題でもロシアポップス界を語るに欠かせない大スターです。
前述したアラ・プガチョワの最初の娘は、歌手クリスティナ・オルバカイテ/Kristina Orbakaite。
クリスティナ・オルバカイテさんは、Dimashがスラヴィックバザール2015年の本選1日目に歌った「再び吹雪 Опять Метель(Blizzard again)」のオリジナル歌唱者です。
(もう少し正確に言うと、アラ・プガチョワとクリスティーナ・オルバカイテの母娘2人共演の曲です。)
↓ オルバカイテさん公式
母娘共演
「再び吹雪 Опять Метель(Blizzard again)」
(映画の挿入歌のため、クリップには映画シーンが出てきます)
↓ Dimashが歌った「再び吹雪 Опять Метель(Blizzard again)」
2015年スラヴィックバザール
この関係もあったのでしょう。
クリスティナ・オルバカイテさんは、2017年 Dimash のソロコンサートBastauにゲスト出演し、この曲をDimashとデュエットしましたね。
D:彼女の応援のおかげで2年前の“Slavic Bazaar”のコンテストで僕は成功を収めることができました。
みなさんもう誰だかわかったよね。
クリスティーナ・オルバカイテさんです!
2.フィリップ・キルコロフの存在
さて「愛は夢のようなもの」に話を戻しましょう。
この作品は1994年に生まれました。
この曲の誕生は、"フィリップ・キルコロフ(1967年生まれ)とアラ・プガチョワのロマンス"の存在なしには語れません。
フィリップさんはDimashの出演するロシアの音楽イベントNew Waveなどで日本のディマシュ ファンにもおなじみの歌手ですね。
圧倒的な個性で存在感を示している、あの方です。
フィリップさんはアルメニア人の祖父母(サーカス団員)をもち、両親はブルガリアの音楽家・歌手です。
1985年、18歳で歌手としてデビューしたフィリップさん。
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長身でハンサム、恵まれたスターとしての資質にもかかわらず少々苦労しますが、1988年 21歳の時、アラ・プガチョワの名前を冠した"いわゆる彼女の冠番組"への出演オファーを獲得します。
↓ 冠ショー番組に呼ばれたフィリップさん、22歳。飛んだり跳ねたり、トシちゃんみたいに踊っています。(クリックで直接飛びます)
「アラ・プガチョワ劇場シリーズ‐クリスマスの集い」(1988年~プガチョワのクリスマス恒例・音楽ショー番組)
3.大ロマンスから生まれた「愛は夢のようなもの」
【ロマンスの伏線】
フィリップさんが子供のころ大病をした時、両親は当時有名だったヴァンガという予知能力者の女性を頼りました。
すると「3日目に運命の女性が現れる」と言われました。
ご託宣どおりフィリップ少年は “テレビから流れる歌声に目を覚まし、運命の女性として、プガチョワの歌う姿を見た”というエピソードがあります。
1970年代、アラはすでにスターであり、少年フィリップの心には アラ・プガチョワのことが深く刻み込まれました。
【ついに結婚へ】
さて、
フィリップさんにとって アラ・プガチョワは、少年時代からの憧れ、高嶺の花、18歳年上の大スター。
彼女にゾッコン、首ったけの彼は、頑張ってポップス界で独り立ち。
地位と人気を高めていく中で、3度目の夫のいるアラに熱烈アプローチ。
とうとう彼女の心を動かし、二人は1994年に結婚します。
(なかなか相手にしてもらえなかった"若造"のフィリップさんにしてみれば「大スターのアラ様に結婚して頂く」という感じでしょうか。いわゆる格差婚だったかもしれません。)
【クルトイ氏へのオファー】
その1994年、おりしもイーゴル・クルトイ氏(40歳)は、その秋に「自分の曲だけで構成するショー」を企画していました。
(この公演は、イーゴル・クルトイ氏最初の"自作品だけで構成された"コンサートでした。)
クルトイ氏はフィリップ・キルコロフさんから「妻プガチョワが歌う一曲」を注文されます。
クルトイ・ショーのトリを飾る曲であり、アラの出した条件は「絶対的に、ハッピーエンドの愛の賛歌であること」。
(アツアツらぶらぶ 新婚の二人。悲しい失恋の歌なんて注文するわけありませんね。)
イーゴル氏は"いくつも書き直し、様々なパターンを作曲した"と語っています(18回とか)。
才能豊かなイーゴルさんは、あたかも “作曲の神様” 召喚術が使えるかのように、「曲はすぐに出来た」と言うことが多いので、このように苦労するのは珍しい気がします。
更には「詞」で大難航。
仕事仲間の作詞家たちに曲を提示しても、いいものが一向に出てこない。(あちらの方々は、ハッピーなものは苦手なんでしょうかね。)
【17歳の文学少女】
そうして、ようやく無名のヴァレリア・ゴルバチョワ、なんと17歳による「愛、それは夢に似ているもの」という詞が出てきたのでした。
当時のヴァレリアは、作詞家になるのが夢の文学少女。
何のつてもなく、その世界への入り方を知らない彼女は、新聞社やラジオ局などのメディアにせっせと詩を投稿し、母親に「アラ・プガチョワ劇場」(コンサート番組)に連れて行って貰えば作品をスターの関係者に渡したりしていたそうです。
どこでどう誰の目にとまったのか、記憶に残ったのか、
行き詰まっている「アラ・プガチョワのためのクルトイ作品」への挑戦話が彼女に持ち掛けられました。(これには諸説あります。)
ヴァレリアによれば、期限は三日であったといいます。
彼女は詩を提出しました。
さて、どんなハッピーエンドの愛の賛歌を書いたのでしょうか。
夢は「眠り」の中で見るもの、その眠りは必ず醒めるもの。=自然の法則・摂理です。
「自分の姿が、あなたの瞳から なくなったらどうしよう」
…そんな不安げなところから歌は始まり、夢見心地のラインをつなげ、
「愛は夢のようなもの、だけど(覚めるという)眠りの法則があろうと、愛を終わらせないで下さい」
と、法則破りを願う言葉で終わります。
↓ 参考過去記事
dimashjapanfanclubofficial.hatenablog.com
この詞を聞いた時、フィリップさんは大きな目をさらに大きく見開き、鳥肌が立ったといいます。
【Dimashの生まれた年に出来た名曲】
ようやく出来上がった「愛は夢のようなもの」。
この曲を捧げられたアラ・プガチョワは、1994年11月クルトイのコンサートで、"不安で儚げなメロディー"に乗せた"力強い詩"を、実に実に高らかに誇らしげに壮大に自信に満ち満ちて“絶対的なハッピィエンド”として、ねじ切るように歌い上げました。
↓「愛は夢のようなもの」アラ・プガチョワによる初演
(クルトイ氏の伴奏)
《イーゴル・クルトイの創造的な夜 – 1994》
※クリックで直接飛びます
※アラのハートを射止めた27歳フィリップさんも、開始13分過ぎНе твоя вина “あなたのせいではない” を歌っています。
絶対的ハッピーエンドの愛の賛歌「愛は夢のようなもの」は大ヒットし、ロシアの結婚登記所のBGMになり、病院の音楽療法に使われるまでになりました。
初演がディマシュが生まれた年、というのがちょっと運命的で面白いですね。
初演から20年後のNewWaveではこの曲はすっかり人々の中に定着しており、涙して唱和しスタンディングオベーションに至る聴衆の姿が見られます。
ここでのアラは、最後の「終わらせてやるものですか/プスカイ ニェ コンチッサ アナ」で、“してやったり”とでも言うような笑顔さえ浮かべます。
↓ 2014年 NewWave
アラ・プガチョワとフィリップ・キルコロフの結婚生活は、7年後にはアラの新しい恋人(前述のマキシム・ガルキン)が出現し、11年後2005年の離婚で正式に終わりました。
夫婦ではなくなった二人ですが、今も友人として良い関係を築いています。
↓ 2019年
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4.スキャンダル (歌詞騒動)
"スキャンダル"と書いたのは、スターたちの愛憎劇のことではなく、実は、詩の作者ヴァレリア・ゴルバチョワについてです。
アマチュアの若い少女ヴァレリア・ゴルバチョワ。
大人気曲の作詞者として表舞台に出る機会もなく、作詞家への道も開けず、夢はかないませんでした。というのも…
ここからは、ヴァレリア本人による"自分への不当な扱いへの訴え"です。
「愛は夢のようなもの」の曲は、発表のすぐあと「‘94年 今年の歌」に選ばれ、ヴァレリアさんは、そのガラ・コンサートに作詞者として招待されます。
気分は最高潮。晴れがましい舞台への登壇を思い描いて出席したものの、結局、正式に名前を呼ばれて表彰されることなく祭典は終了しました。
有頂天から奈落に突き落とされ、舞台裏で抗議するヴァレリアさんは、“賞品の携帯電話は、裏で渡してあげるよ” “もっと仕事をして売れなきゃ。一人前の口を利くのはそれからだ”と関係者に言われたとか。
その後のロシアンポップス界でも、栄誉を受けられる(はずの)場面で表舞台に上げてもらうことはありませんでした。
例えば、当時ロシアにあったアウォード「オベーション賞‐2001」
"過去10年間の最も人気のある音楽アーティスト"としてアラ・プガチョワが受賞し、
"過去10年のベストヒット作品"には「愛は夢のようなもの」
作曲家イゴール・クルトイ
作詞家ヴァレリア・ゴルバチョワ
演奏者アラ・プガチョワ受賞。
ですが、ヴァレリアさんは公けには表彰されず、かろうじてフィリップさんから「あの詩がなかったら、この曲は生まれなかったよ」と、トロフィーを記念に渡されました。
2010年、
今度はララ・ファビアンが「Love is Like A Dream/愛は夢のようなもの」を歌い始めます。
2013年頃、ヴァレリアさんの訴えで歌詞騒動は再燃し、ロシアンポップス界を賑わした話題となりました。
(ロシアの芸能界のニュースやネット上には、この"ヴァレリア関連記事"がたくさんあり、ヴァレリアさんが不満を訴えるワイドショーっぽい番組動画もあります)
ヴァレリアさんの訴え:
「クルトイチームは、私の経験不足と無知を利用した。功績にふさわしい扱いを受けられなかった。
クルトイチームは、作詞家として私を迎え入れなかった。
アラがショーで歌うたびにロシア作家連合 から25000ルーブル支払われたが、それも、2010年、クルトイがこの曲をララ・ファビアンに与えてから、(ララからの申し出で)権利放棄を求められて一切なくなった…。
私は、詩人になりたかった。
未来を奪われ、精神的打撃から病気にもなった…」
関係者の言葉は立場によって少しずつ違います。
“真実”はわかりません。
が、“何か” が当時あった。
曲のクレジットは初演動画から彼女の名前が記されていますので、作詞者隠蔽とは違うように思います。
ヴァレリアさんの思い描いた人生の夢は消えましたが、名曲の作詞者として名前は残りました。
なお、夕刊モスクワによれば、ヴァレリアさん、一旦は諦めた作詞をしているようです。
よかったですね。
ヴァレリアさんが夢見たのは、きっと ↓ こんな晴れ舞台だったのかもしれません。
(2018年、Песня года 2018今年の歌 疲れた白鳥の愛)
↓ クリックで直接飛びます
【後日談】
2019年
アラ・プガチョワの70歳記念でディマシュが歌い、アラ自身もコンサートを開き、再び話題となった Love is Like A Dream。
"我こそは本当の作詞者だ"と名乗りを上げた人物が2019年に現れました。
えええ?
ポップミュージック界プロデューサー、作詞家のLyubov Voropaeva/リュボフ ヴァラパエヴァがその人です。
アラがソロになる以前のバンド時代にも「赤毛はいつもラッキー!」などの詞を提供している知古でありベテランです。
リュボフ ヴァラパエヴァ談:
「前にも一度、"これ"について公表したことがありますよ。
昔、私と夫は、“バービー”という若い女性歌手をプロデュースしていました。
そのファンクラブのファン・リーダとして、メールの仕分け・整理などの手伝いをしてくれた文芸希望の17歳の女の子がいたんです。
それが、ヴァレリア・ゴルバチョワ。
彼女はよく未熟な詩を書いて、私は書き方指導をしてやったものです。
彼女が見せてきた子供っぽくて稚拙な詞を添削し、結局 私が全部書き直して、“愛は夢のようなもの” この1行だけが残ったんです。
ヴァレリアが(これを)「自作」と言うのは、おかしいでしょ?
私が、アラの歌(の歌詞)に気づいて、ヴァレリアに連絡を取った時は、もう彼女は(歌詞騒動で)惨めな状態で話もできず。
こちらも“素人の彼女に一本、花を持たせてやるわ”って、そんな(寛大な)感じだったんです。
とにかくLove is Like A Dreamの本当の作詞者は、私ですよ。
アラとフィリップがこの間のショー(2019アラ・プガチョワ70歳記念コンサート)のあと、楽屋で歌っている動画をインスタグラムに投稿しましたね。
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あれを見て、また"この事"を思い出しました。
アラに電話したら"じゃぁ、世間にそれを公表すれば?"と。
ですから、こうして言うことにしたんです。
訴訟(を起こすかどうか)?(笑)
そうは言っても、ヴァレリアが詩をタイプしてきた紙に、ペンで書き直して渡しただけ。
証拠も何もありませんしね(笑)」
ロシアも、やはり、いろいろあるのですね。
2019年のこの話は、そのまま沈静化したようです。
筆者は遠くであれこれ想像を巡らしながら、Dimashに飛び火しませんようにと祈るのでした。
様々なエピソードを持ちながらもロシアポップス界に燦然と輝く名曲"Love is like a Dream"。
このお話はもう少し続きます。
後編に続く
dimashjapanfanclubofficial.hatenablog.com
まつりか
★★★
2022年9月23日
カザフスタン アルマトイにて
ディマシュのソロコンサート"Stranger"が開催されます。
↓ ティーザー
↓ 関連過去記事
チケット情報など
dimashjapanfanclubofficial.hatenablog.com
★★★
↓公式 ディマシュ ジャパン ファンクラブホームページ
↓公式 ディマシュ ジャパン ファンクラブSNSとディマシュ本人やOFFICIALのSNS
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*1:ソ連~ロシアの大長寿番組「Song of the Year」の前身番組。2000年までは毎年、西暦の数字を冠した「〇年の歌」というタイトルで放送していた歌番組。年間通じて毎月競争をし、年末に決勝が行われる。動画はその「’83年の決勝」